歴史事実と歴史認識

ロシア大統領が北方領土を好き勝手にした件について、クズみたいなコラム記事が地元紙に載ってたんですが、前にナイトレイドを批判した件もあるので、今回はそれらを絡めて「歴史事実と歴史認識」について述べようかと。
コラムではこのような行(くだり)がありました。
「行き詰まった領土交渉に命を吹き込むのは、ナショナリズムに依拠する政治ではなく、科学としての正確な歴史認識の共有だろう。日ロの専門家による本格的な共同歴史研究に取り組むべきだ」
これを書いた共同通信の松島芳彦という記者もたいがい馬鹿ですが、一見正しく思えるこの文章に騙される素人も多いでしょうね。
まずもって言いたいのは、歴史というのは「事実」と、それに対する「認識」の二つの面に分かれるということです。
たとえば、A君が昨日お昼に焼きそばパンを買って食べた、というのは過去に確定した事実です。
それを知った友人のB君が、やつは焼きそばパンが好きだからな、と思うのが事実に対する認識です。
ここではA君の行動は動かし難い事実であり、誰が見ても「焼きそばパンを買って食べた」という事実が確認されるわけです。
ところが、このA君の行動に対する認識は、見る人によって様々に動きます。
友人のB君は、A君が焼きそばパンが好物だと知っているので、買ったパンがそれであることに着目して、好物を買って食べたと認識します。
ところが、A君のことを知らないC君が見れば、腹が減ったから昼飯にパンを食べたのだなと認識されます。
あるいはその時、その場に居合わせて焼きそばパンを奪い合っていたD君からすれば、A君が最期の一個を買ったせいで食いそこねたと、そこから恨みを認識するでしょう。
このように、A・B・C・D君の間で、正確な歴史事実(A君が昨日お昼に焼きそばパンを買って食べた)は共有できても、その事実に対する認識は共有できないどころか、まったく各人で違ってしまうです。
このように事実と認識の関係を理解しているとき、冒頭紹介した新聞コラムが、馬鹿だと断じた理由が分かるでしょう。
科学としての歴史事実は存在しえても、科学としての歴史認識は存在しえない、というか認識は科学ではないからです。
さて、以上の基本を抑えた上で、今一度私がリアルタイムでナイトレイドに加えていた批判の数々が、どういう意味で行われていたか、理解できたと思います。
あれは歴史認識(しかもプロパガンダにまみれたもの)を歴史事実のように見せかけ、あまつさえ本来の歴史事実すら捏造して、自分たちの歴史認識(プロパガンダ)に都合がいいように歪曲したから最悪なのです。
同様に現実世界でも、支那が狙う尖閣諸島や、日韓歴史問題、ロシアとの北方領土問題など、事実と認識を履き違えた事件に枚挙にいとまがありません。
アニメの批評も現実社会の問題も同じ。
正しい知識(事実)をもって、できるだけ公平な認識を下せるように努めたいものです。