とあるブログへの反論

ブログの「トラックバック送信のお知らせ」メールが、たまにくるんですが、大抵は引用ではなくて単なるリンク貼りです。でも今回は珍しく、本当の意味での引用・批判だったので、こちらも本気で返して差し上げようと思います。

http://d.hatena.ne.jp/freak-k/20090316

この方は、勧善懲悪について論じておられますが、その内容自体は非常に論理的であり、頷けるものです。私もこの方の見方に賛成ですね。それゆえに、私の「書きなぐり感想」をこういう引用の仕方をして、批判されるのは心外です。(もっとも、論文ではなく日記に過ぎないブログにおいて、表面の言葉尻のみを捉え批判されるというのは、当然発生しうるリスクである)

この方は、私がダブルオーを勧善懲悪ゆえに否定していると思っていらっしゃるようですが、全く違います。私は「安直な」勧善懲悪だと批判しているのであり、一般的な物語における勧善懲悪の構図そのものを否定してはいません。つまり、この方も述べているように、物語に深みを持たせるための善と悪の設定が全くなされておらず、単純きわまりない絶対悪と絶対善の対決、という構図のみであるダブルオーを批判しているのです。このままイノベイターを刹那たちが倒しても、そこに何のカタルシスも無く、彼らが希求する戦争根絶・世界平和が実現するとは到底思えない。その頭の悪いシナリオ設定、シナリオ運びを批判しているのであり、勧善懲悪だから悪いと言ったことは一度もありません。

また、

>もう一つは『仮面ライダー』の引用。この場合恐らく昭和時代のシリーズを念頭に置いていると思われますが、
>「安直な勧善懲悪」の典型という批判対象の最右翼と断じていらっしゃいます。

と断じていらっしゃいますが、私は「的」と入れています。つまり喩えとして表現しているのであり、ライダーが勧善懲悪でけしからんなどとは言ってません。そしてライダーを安直な勧善懲悪とも認識してません。

私がこのブログで終始批判しているのは、戦争ものとしてのダブルオーの底の浅さです。戦争とは単純な正義と悪の戦いではない。互いに正義を呼称し戦いあう「正義と正義」の戦いです。人類が二千年たっても戦争一つ止められないのはなぜか。そこを冷静に見つめたとき、はじめていろいろ見えてくるのであって、正義と悪があって、悪をぶっ叩けば平和がやってくる、なんて単純に考えている限り、永遠に戦争なんてなくなりません。
そういった意味で、富野監督のファーストガンダムが凄かったのは、そういう戦争の真の姿を描こうと試みたことであり、ガンダムシリーズならば、そのテーマは外すべきではない。(Gガンダムを除く)
ところがダブルオーは、ファーストシーズンこそ新しい切り口で戦争を描こうと試行錯誤した形跡がありましたが、セカンドシーズンはまったくそういうことを諦めたのか、人類を裏から支配するイノベイターが巨悪の元、という設定にしてしまい、刹那たちソレスタルビーイングの存在意義を、単純な正義の味方に貶めました。刹那たちは、平和を希求しながらも、自らは戦争を巻き起こさねばならないという矛盾に満ちた存在です。それゆえに、そこにさまざまな葛藤が生じ、戦争の実像が浮かび上がってくる。(あるいは浮かび上がってくるはずでした)
それをセカンドシーズンでは放棄したがゆえに、物語は完全に破綻した。ファーストとセカンドの整合性が無くなってしまったのです。それを端的に象徴するのが、刹那がミスターブシドーとの対決のさい漏らした言葉です。「こいつも俺たちによって生み出された世界の歪みか」。ちょっと待てよ、世界の歪みを正すのが、刹那たちの役割じゃなかったのかと。しかし刹那は自分たちが世界の歪みを生んでいると認識している。ならばソレスタルビーイングの倒すべきは自分たち自身ということになる。こんな物語を崩壊させる大矛盾を、平然と刹那の口から語らせることを見ても、もはやダブルオーが物語として破綻していることは明らかです。

物語の作り方(お話のパターン)というのは、シェイクスピアの時代に完成されたと言います。つまり、もうまったく新規のお話なんて創れるわけが無く、それ自体は批判することではないと思います。問題は、その基本形をどれだけうまく見せるか(いわゆる物語に深みを与えること)です。そのためには設定がとても重要です。そういった点で、ダブルオーはあまりに稚拙に過ぎたと言えるでしょう。(おそらくは監督および脚本の、政治・戦争に対する無知が原因でしょう)

>ただそれが成功するのかしないのか、結局風呂敷を畳めるのかどうかは、作劇上のテクニック論なのであって「勧善懲悪」とは関係がないと思われます。

全くその通りですね。私のブログ感想を全部読んでいれば、たとえ書きなぐりで端折っている部分が多いにしても、真意が見えてくるはずです。