やはりヤマカンは才能無し

・『フラクタル』3話で死んだデブは命の軽さを表現するために殺したらしい
http://yaraon.blog109.fc2.com/blog-entry-1918.html
言わんとすることは分かる。
が、演出としてそれが受け手に伝わってない以上、これは失敗。
この話を読んだとき、真っ先に思い浮かんだのが機動戦艦ナデシコの第3話。
ダイゴウジ・ガイがなんの前触れもなく殺され、ストーリー的に何も触れられることなく流されてしまった話があったが、その時も脚本の會川昇は、「命の軽さを表現したかった」と述べていた。
この時も、その意味のない話の作り方に批判があったが、ヤマカンのこれも同じ。
戦争などの争い事で、人の命が簡単に失われてしまう事実。
それを描きたいのは分かる。
だが、それを物語として落とし込むとき、命の軽さ=ストーリーの軽さでは決してない。
なぜなら、極めて逆説的になるが、命の軽さを受け手に伝えるためには、物語にそれだけの「重さ」がなければ、メッセージ性が生まれないのだ。
命はかくも「軽い」のだという「重い」メッセージ。
それは仲間が自己犠牲精神で死ぬという命の重さを表現するストーリーよりも、はるかに難しい。
重いものを重く書くのは簡単だ。
だが、重いものを軽く書くのは至難の業。
ヤマカンも會川昇も三流なのは、軽いものは軽く書けばいいと勘違いしていること。
メッセージ性とは、重ければ重いほど、受け手に明確に印象付けられるもの。
だから命は軽いというメッセージも、重く伝えなければ受け手には届かない。
そんな基本的な演出論すら分かってない時点で、ヤマカンが口だけの馬鹿だということがよく分かる。
こいつは、せいぜいOPやEDの演出だけやっていれば良かったのだ。
こんな人間を持ち上げる屑が多いことが、今のアニメ界の限界を示しているのではないか。

一方で秀逸な論評

・なぜ少女が湯水のように消費されるのか―男性オタク界隈における少女の消費状況について―
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110516/p1
近年、少女たちのキャッキャウフフな作品が流行っているが、過酷な現実からの逃避という説明はあったものの、すべて説明しているようには思えなかった。
この論評を読んで、疑問がすっかり氷解した。
昨今のジェンダーフリーというサヨク思想が、社会を蝕んでいるのは周知の事実だが、ジェンダーフリーに毒された結果、男性オタが女性化し、女性の主人公に難なく感情移入できるようになった、というのは全くの盲点だった。
やはりアニメ作品とは、サブとはいえ文化だから、世相を反映するもの。
非常に面白い論評だと思った。